大判例

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最高裁判所大法廷 昭和40年(し)98号 決定 1967年7月05日

主文

本件各抗告を棄却する。

理由

弁護人森長英三郎、同松井康浩、同斉藤一好、同宮原守男、同黒田寿男、同森川金寿、同海野普吉、同能勢克男、同毛利与一の抗告理由第一および同補充第五<省略>は、同抗告理由第三の二、同補充第二の三および同第二補充について。

所論は、判事上野敏が評議に関与していないことを根拠にして、原決定の違憲(三七条一項違反)をいうが、当裁判所の事実取調の結果によると、原裁判所は、昭和四〇年二月一日に、同判事を含む五人の裁判官により、本件について評議をしたことが認められるから、所論は前提を欠き、応急措置法一八条の抗告の適法な理由に当らない。

もつとも、当裁判所の事実取調の結果によると、右裁判官のうち判事長谷川成二に対しては、同年一月三〇日付で浦和地方裁判所長、同家庭裁判所長を命ずる旨の発令があり、同日東京高等裁判所小林事務局長より同判事に対し、電話で右発令のあつた旨を通知したことが認められるから、いまだ辞令書の交付前ではあるが、右転補の発令は同日その効力を生じたものと解せられ、したがつて、前記評議は、右転補後に行われたことになる。

しかし、同じく事実取調の結果によると、同判事は、本件の処理を終えた後に転補の発令がなされるものとの関係者間のあらかじめの了解のもとに終始本件の審理に関与してきたものであり、右小林事務局長の通知を単なる内報程度のもので正式な通知ではないと考えていたこと、および本件の評議を前記のとおり二月一日にしたのは、原裁判所の構成員である前記上野判事が、一月二九日から翌三〇日にわたつて、他の事件の証拠調のため長野県下に出張していて、評議をすることができなかつたことによるもので、同判事の帰庁を待つて、遅滞なく次の週の月曜日である右二月一日に評議をしたものであることが認められる。そして、右事実によると、長谷川判事が前記転補の発令後評議に関与したのは小林事務局長の通知を正式のものではないと考えたためであつて、同判事に他意はなく、かつ、同判事は、いつでも東京高等裁判所の判事の職務の代行を命ぜられうる資格のある者である(裁判所法一九条一項参照)から、たまたま形式上職務代行の発令がなくても、右のような具体的事情のもとでは、同判事が前記評議に関与したことをもつて、偏頗のおそれがあるものということはできず、また、全然評議に関与する資格のない者が裁判所を構成したものということができない。したがつて、原決定は、憲法三七条一項にいう公平な裁判所の裁判でないということはできない。

同抗告理由第四および同補充第三について。

所論は、違憲をいうが、憲法八二条は、刑事訴訟についていうと、刑罰権の存否ならびに範囲を定める手続について、公開の法廷における対審および判決によるべき旨を定めたものであつて、再審を開始するか否かを定める手続はこれに含まれないものと解すべきで、所論は理由がない。<中略>

よつて、刑訴施行法二条、旧刑訴法四六六条一項により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。(横田正俊 入江俊郎 奥野健一 草鹿浅之介 長部謹吾 城戸芳彦 石田和外 柏原語六 田中二郎 松田二郎 岩田誠 色川幸太郎 大隅健一郎 松本正雄)

弁護人森長英三郎、同松井康浩、同斎藤一好、同宮原守男、同黒田寿男、同森川金寿、同海野普吉、同能勢克男、同毛利与一の特別抗告理由

<前略>

二、判事上野敏が、最終の審理および合議に関与していないにもかかわらず、原審決定では合議したことになつている。これは裁判所の構成を欠き、裁判所法施行令(昭和二二年政令第二四号)第一条に違反し、ひいては、その公正を阻害され、憲法第三七条第一項に違反する。

第四、原審決定は、憲法第八二条に違反する。

原判決は、非公開で審理された、いわゆる暗黒裁判である。裁判の公開は、裁判の公正を担保するものである。しかるに原審は再審開始決定前の手続が、対審(trials)でないという見解のもとに、これを非公開で審理をなした。原判決が公開の法廷で審理された場合であるならば格別、本件大逆事件では非公開の審理であつた以上、その再審手続においては、再審開始決定前といえども、これを公開しない限り裁判の公正は担保されない。(原審は、新聞記者の傍聴さえも禁止したのは、原判決の場合と同様である)したがつて原審はその手続において憲法第八二条に違反する。<後略>

弁護人森長英三郎、同松井康浩、同斎藤一好、同宮原守男、同黒田寿男、同森川金寿、同海野普吉、同能勢克男、同毛利与一の特別抗告理由(補充)

<前略>

三、原審裁判所の構成の問題

特別抗告理由第二の二は、判事上野敏が最終の審理および合議に関与していないことを指摘しておいた。本件最終の審問期日は、記録一五〇〇丁以下において明かなように、昭和四〇年一月二九日に行われ、その時間は午前一〇時から一二時すぎまでである。この日裁判所側は、受命判事として、長谷川関、小川、金末の各判事によつてなされた。立会書記官は渡辺明、立会検察官は長谷検事、出頭弁護人は、森長、黒田、松井、斎藤、宮原であつた。そして弁護人および検事から各意見陳述があつた。

この最終審問期日が終つたら裁判官の合議があり、それから決定文が書かれるのが訴訟手続であると、私達は心得ている。ところが同日の午後五時までの間に、ついに上野判事は顔をみせず、また同日合議がなかつたことを、弁護人らは伝聞したのである。長谷川裁判長は翌三〇日浦和裁判所長に補せられたので、翌日以後の合議はありえない。なお上野判事は、同月一六日、東京地裁の専任判事として転補となつている。従つて同日は東京地裁で終日裁判事務をしておられたのであろう。もつとも同判事は右転補とともに東京高裁の職務代行として名を留めていて、同年四月一日付で、それを解かれているが、右の経過からみて、右職務代行は、原決定に名前をつらねるだけのものであつたわけである。

なお弁護人の第八追加証拠説明書は、坂本清馬の「身分帖」(証第一〇八号)の証拠説明書であるが、同書冒頭記載の通り、一月二九日の最終審問廷で列席の裁判官と打合せた上で、そのさいに閲覧を許可され、追つて閲覧の上証拠説明書を提出することにしたものであつて、そのときは、長谷川裁判長の転出など夢にも知らなかつたのである。同書面は翌二月八日に提出した。このとき長谷川裁判長は転出後で合議に加わることはできないわけであるが、一月二九日の審問期日には追つて提出することを認めている。

このように原審は裁判所法施行令第一条に定める五人構成を欠いて最終審問および最終の合議をしたのである。これでは原決定裁判所はなきに等しく、ひいてはその構成を阻害せられ、憲法第三七条第一項に違反するといわねばならない。

本項の事実について、貴裁判所は職権で調査されるものと考えるが、別に森長、斉藤のこの事実を疏明する証明書を提出する。

第三 憲法第八二条違反について

――特別抗告理由第四の説明

原判決の審理が非公開で行なわれたことは明らかである(原決定一六丁)。原審決定は相当多数の在日外交官のほか、三渕忠彦、森林太郎らが傍聴を許されたというけれども、新聞記者の傍聴も許さず、裁判所から信任されて、特別許可をうけた特定の者にだけ傍聴を許可したからといつて、公開になるものではなく、非公開で審理されたことには変りはない。それは国際世論を危惧した形式上の傍聴で、公判廷での証人申請は全部却下されて、一人の証人調べも行なわず、超スピードで審理された暗黒裁判である。

裁判の公開は、裁判の公正を担保するものである。裁判公開の原則は近世に入つて認められるにいたつた。ベツカリーアは、その「犯罪と刑罰」の中でいつている。

「裁判は公然たるべきである。犯罪の証拠もまた公然たるべきものでなければならぬ。何故かというに、そうなれば、社会の唯一の基本といつて差支えない所の輿論は、暴力と情欲とに対する一つの覈束となるであろう。而して民衆は(道理ある誇りを以て)叫ぶことができるであろう。『我々は奴隷に非ず、我々は(法律によつて)保護されている』と」

国民の基本的人権も、最後の保障は結局裁判にあるのだから、裁判が公正に行なわれない限り、憲法の人権保障の規定は空文に等しい。この裁判の公正を国民の直接の監視によつて保障しようとするのが、裁判公開の原則であり憲法第八二条の規定の趣旨である。しかも同条第二項但書で、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつている事件の三個の絶対的な公開事由を掲げ、これらの場合にはたとえ公の秩序善良の風俗を害するおそれがあつてもなお公開を停止できないとしている。特にこの三個を絶対的公開理由としたのは、二つの面から考えられる。その一は、不公正な裁判の行なわれるおそれが特に強いものであり、第二は、不公正な裁判からの防衛が特に必要とされるものである。裁判を行なう国家権力自体を直接に侵害する犯罪であるところの政治犯は、国家権力の憤怒を激発し易いものであるからである。大逆事件はまさに「政治犯罪」の範疇に属する。

しかるに原審開始決定前の手続を非公開で審理しなければならないとの規定がないにもかかわらず、再審開始前の手続が、対審(trial)でないという形式的見解のもとに、これを非公開で審理をなした。原判決が、公開の法廷で審理され、その裁判の公正が担保されている場合ならば、格別、本件大逆事件が「政治犯罪」であつたにもかかわらず、非公開の審理がなされいわゆる暗黒裁判として司法の歴史上汚点を残した裁判である以上、その再審手続においては、再審開始決定前といえども、これを公開しない限り裁判の公正は担保されない。原審が、新聞記者の傍聴さえも禁止したのは、原判決の場合と同様である。

これについては、原審第一回審問(請求人坂本清馬にたいする尋問をした昭和三八年九月一三、四日)の開始せられるに先立ち、昭和三八年八月二八日付で、原審森長弁護人の名前で「上申書」を提出して、審問日の順序について希望を述べるとともに、公開を要求し、また同日付で、原審森長、松井、斉藤、宮原弁護人の連名で「審理公開についての要請書」を提出し、前記のような趣旨を述べ、かつ同日、右四弁護人が長谷川裁判長に面会して口頭でも公開を要求した。しかるに原審ではこれを斥けて、新聞記者にさえも傍聴を許されないところの非公開で審理を行なつた。

重ねていうが、原事件が風俗犯罪ではなく、政治犯罪である場合にあたる本件において非公開でなされている場合には再審開始決定前の手続でなくても、公開で審理されない限り、その審理の手続の公正は保障せられておらないのである。

したがつて、原審はその手続において憲法第八二条に違反するものというべきである。<後略>

弁護人森長英三郎、同松井康浩、同斎藤一好、同宮原守男、同黒田寿男、同森川金寿、同海野普吉、同能勢克男、同毛利与一の特別抗告理由(第二補充)

原審裁判所の構成の問題

特別抗告理由第二の二は、判事上野敏が最終の審理および合議に関与していないことを指摘し、昭和四一年二月二八日付「特別抗告理由補充書」第二の三(三二頁以下)でさらにその問題を詳しく述べておいたが、重ねてこの問題について補充する。

一、長谷川裁判長が浦和地方裁判所長等になられたとき、東京高等裁判所判事の職務代行に命ぜられていないことは、昭和四一年三月及び同年四月、森長、松井両弁護人が各別に東京高等裁判所人事課で調査した際に明かにせられたところである。

二、合議(評議)の意義

裁判の合議は、裁判所が裁判所外で職務を行う場合を除いては、裁判所構内の裁判官室、合議室その他通常慣例として合議が行われている場所で行われなければならない。そうでないと裁判の威信は保たれない。

つぎに合議は、本件では五人の裁判官が同時に一つの場所に会合して行わなければならない。裁判所法第七五条第二項、第七六条はこのことを前提としているといえる。持ち廻り合議、電話応答による合議、欠席して白紙委任する合議、欠席して後から追認する合議は許されない。もしこのようなことでもよいということになると、裁判の威信を著じるしく失堕させることになる。裁判においては同席する一人の意見が他をつがえし、全体を動かすこともありうるのであるから、一人を欠いても、その合議は合議でない。

刑事事件における合議は、少なくとも弁護人の弁論を終つたのちになされなければならない、弁論前に合議を終つたと強弁するものがあるならば、それは憲法第三七条第三項を空文にするものであつて、憲法違反の意見となる。

合議の内容は、主文およびその理由づけについてなさらなければならない(合議せられた理由を文章につずる作業については、ここではふれない)。

三、本件における合議の時期

昭和四〇年一月二九日の審問は、前記の通りであるから、通常刑事事件の弁論にあたる。したがつて本件決定についての合議は、同日の審問が終つたのち(正午頃)、同日の通常執務時間中に行なわれなければならない。翌三〇日は、長谷川裁判長は東京高等裁判所判事ではなくなるのであるから、五人の裁判官の構成を欠き、合議することができないのである。

弁護人らは一月二九日の審問が終つて、その室から廊下へでたときに、新聞記者から、はじめて、明日、長谷川裁判長が浦和地方裁判所長に栄転することを教えられ、大いに驚き、森長、斉藤弁護人が裁判官室で長谷川裁判長に面会した。そして合議はどうするのかときくと、今日これからするといわれた。これだけの大事件に半日の合議とはひどいではないかときくと、今までもそのときどき合議してきたと答えられた。午後には多分上野判事も来られて合議せられるのであろうと思い引き下がつたのであつた。その後、その日の午後は、上野判事も来られず合議がなかつたように伝えきいたがなお半信半疑であつた。

その後だんだんと、合議が行なわれていないことが信じられるようになつたので、本件特別抗告理由第三の二として、「判事上野敏が、最終の審理および合議に関与していないにもかかわらず、原審決定では合議したことになつている。これは裁判所の構成を欠き、裁判所法施行令(昭和二二年政令第二四号)第一条に違反し、ひいては、その公正を阻害され、憲法第三七条第一項に違反する」と述べておいた。

四、昭和四〇年一月二九日の上野判事の所在

その後弁護人が、右抗告理由について疏明書類作成のために調査している過程で、当日上野判事は東京地方裁判所判事として長野県で出張尋問をしていることを知つて驚いた。「東地裁刑庶第二六号、昭和四十一年三月二十九日、東京地方裁判所長大場茂行」より「東京弁護士会会長荻山虎雄殿」あて「刑事事件出張の有無について回(答)」(別紙写添付)によれば、上野裁判官は昭和四〇年一月二九日午後二時から三時二〇分頃まで、長野県小諸市甲又四五九八番地国立小諸療養所において、被告人全富吉外二名の事件で証人二人を調べ、翌三〇日午前一〇時から午後一時三〇分頃まで長野市、長野地方裁判所で、被告人高野庫之の事件で証人三名を調べ、同日午後二時から二時五〇分頃まで同所で、前記小諸市で証人調べをした事件である被告人全富吉外二名を調べていることが明かになつた。

さらに別の調査により、上野判事は一月二九日夜は上山田温泉(旅館「清風園」)に宿泊されて、長野地裁へ行かれていることも明かになつた。

これで上野判事は昭和四〇年一月二九日の少くとも正午以後三〇日にかけては長野県におつたことが明かになり、二九日午後、東京高等裁判所の合議に参加できないことは完全に明かになつた。

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